日月神示 月光の巻 第五十五帖(八四二)から第五十八帖(八四五)

第五十五帖(八四二)

 

 あなたは頻繁に腹を立てますが、腹が立つのは慢心からなのです。よく心得てください。下肚(したはら)からこみ上げてくる怒りは大きな怒りですから、怒って良いのですが、怒りの現し方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短くして下さい。

 

 怒りに清い怒りはないと、あなたは思案していますが、怒りにも清い怒り、澄んだ怒りがあるのです。三月三日。

 

 あなたはいつも自分の役に不足を言う癖があります。その癖を直してください。長くかかってもよいから、根の根からの改心が重要なのです。手は手の役、足は足、頭は頭の役、それぞれが重要なのです。

 

 上下貴賤(きせん)ないこと、あなたには分かっている筈なので、早く得心してください。

 

 あなたはこの神と極めて深い縁があります。縁あればこそ、引き寄せて苦労させているのです。

 

 今度の御用は苦の花を咲かすことなのです。真理に苦の花が咲くのです。因縁のあなたにです、一を聞いたら十が分かるのです。言われる前に分かってもらわないといけません。知らせてからでは味がありません。

 

 十人並なのです。今度の御用は千人力、十人並では間に合いません。人間の目は一方しか見えません。表なら表、右なら右しか見えません。表には必ず裏があり、左があるから右があります。

 

 自分の目で見たのだから間違いないと、あなたは我を張っていますが、それはただの一方的な真実なのです。独断は役に立たないと言ってあります。

 

 見極めた上にも見極めなければなりません。霊の目も一方しか見えません。霊人は何でも分かっていると思うと、大変な間違いが起きます。一方と言っても、霊界の一方と現界の一方とは、一方が異なります。

 

 あなたは中々に立派な理屈を言いますが、理屈も必要ではあるものの、それは泡沫の如きもので、あなたの財産にはなりません。一方、体験した財産は死後にも役に立ちます。

 

 懺悔しなさいと言っても、人の前で懺悔してはなりません。人の前で出来る懺悔は割引した懺悔です。割引した懺悔は神を騙して、自分も騙すことになります。悔い改めてください。深く反省してください。

 

 深く恥じ、畏(おそ)れてください。心して慎んでください。そうすれば、直ちに良き神界との霊線が繋がります。霊線で繋がれば、その日その時から良くなってきます。気持ちが曲がったら霊線が切り替えられます。

 

 

第五十六帖(八四三)

 

 あなたは何時でもあれは良いらしい、これも良いようだと迷って、迷いの世界を生み出し、自分で自分を苦しめて、気の毒ですね。

 

 これと一度信じたら任せ切りなさい。梶(かじ)を放して鳴門(なると)の渦の中に任せ切りなさい。任せ切ると開けてきますから。悟れたようでいて、あなたが悟り切れないのは、任せ切らないからです。

 

 あなたはいつも孤独、あなたの不運は孤独からなのです。友を作りなさい、友を作ることは自分を作ることと言ってありましょう。友を作ることは新しき世界を作ることです。

 

 一人の世界は知れたものです。一人では誠の道を生きては行けません。友と言っても人間ばかりではありません。山も友、川も友、動物も植物も皆、友なのです。

 

 大地も大空も皆、友となります。何もかも皆、友なのです。皆、自分なのです。全てが自分となれば自分は無くなるのです。自分が無くなれば永遠に生命する無限の自分となるのです。

 

 御神前で拝むばかりでは狭いのです。野菜拝めば野菜が、魚拝めば魚が自分となるのです。

 

 拝むことは和すこと。和すことが友を作る秘訣なのです。友を自分とすることは、自分を友とすることなのです。友に捧げることです。親は子に捧げるからこそ、子が親となるのです。理解しましたか。

 

 赤ん坊のお尻を拭いてあげることもあるでしょう。あなたが赤ん坊と同じであれば出来ない芸当です。お尻を出すものがあっても、けっして怒ってはなりません。子のお尻と思って綺麗に拭いてあげなさいと言ってありましょう。

 

 お尻を持ち込まれるのは、持ち込まれるだけの訳があるからです。利子は後から支払えばよいと、あなたは思っていますが、先に支払うこともあるのです。先にお尻を拭かねばならないことも、世が迫ってくると出てくるのです。

 

 その代わり、後では神があなたのお尻を綺麗に拭いてくださいます。ぶつぶつ文句を言わずに勇んでやってください。

 

 あなたは他にものを与えることに心せねばなりません。与えることは頂くことになるのですから、与えさせてもらう感謝の心がなければなりません。強く押すと強く、弱く押すと弱く跳ね返ってくること、よく知っておりましょう。

 

 自分のものというものは何一つないこと、よく分かっている筈です。

 

 

第五十七帖(八四四)

 

 あなたは失業したので仕事を与えてくれと言っていますが、仕事は無くなってはいません。いくらでもあるではないですか。なぜ手を出さないのですか。

 

 あなたは直ぐ金にならないと食べて行けない、金にならない仕事は出来ない、自分はよいが妻子が可哀想だから、などと言っていますが、どんな仕事でも、その仕事に融(と)け込まねば、その仕事になり切らねばならないのに、あなたは目先の欲に囚われ、欲になり切り、目の色を変えていますね。

 

 それでは仕事になりません。仕事は神が与えたり人が与えてくれるのではありません。自分自身が仕事にならねばならないのです。この道理さえ分かれば、失業はないのです。自分が仕事なのですから。

 

 

第五十八帖(八四五)

 

 春が来れば草木に芽が出ます。花が咲きます。秋になれば葉が枯れます。時節によく気をつけて取り違いしないようにしてください。

 

 時節ほど結構なものはありませんが、また恐いものもないのです。ちょうど呼吸のようなもので、一定の順序があるのです。吸の極は呼となり、呼の極は吸となります。

 

 これが神の用(はたらき)ですから、神の現れの一面なのですから、神も自由にはなりません。

 

 この神も時節にはかなわないのに、あなたは時々この時節を無視して自我で、あるいは時節を取り違いして押しまくるから、失敗したり怪我をしたりするのです。

 

 素直にしておれば楽に行けるようになっているのです。時を待てば煎り豆にも花が咲くのです。水が逆に流れるのです。上下でんぐり返しになるのです。上の人が青くなり、下の人が赤くなるのです。取り違いないように理解してください。