五十黙示録 補巻
月光の巻(全六十二帖)
自 昭和三十三年十二月二十五日
至 昭和三十四年三月二日
第一帖(七八八)
成り成りて成り余れるところもて、成り成りて成り合わざるところを塞ぎて、国生みしなければなりません。
この世の国生みは一つ面でしなければなりません。陰陽和合(ミトノマグワイ)でなくてはならないのに、面を一つにしていないではないですか。
それでは今度のことは成就しないのです。
第二帖(七八九)
奇数と奇数を合わせても、偶数、偶数と偶数を合わせても偶数であることを忘れてはなりませんよ。
奇数と偶数を合わせて初めて、新しい奇数が生まれるのですから。今度の岩戸開きには蛭子(ひるこ)を生んではなりません。淡島(あわしま)を生んではなりません。
第三帖(七九〇)
今度は、八の隈手(くま)は足りません。十の隈(くま)、十の神を生まなければなりません。
その他に、隠れた二つの神、二つの隈(くま)を生んで、育てなければならないことになります。
第四帖(七九一)
天御中主之神(アメノミナカヌシノカミ)のその前に、天譲日天狭霧尊(アメユズルヒアメノサギリノミコト)、地譲月地狭霧尊(クニユズルツキクニノサギリノミコト)があります。
神の神の神です。その前にゝあることを忘れないでください。
第五帖(七九二)
十種(とくさ)、十二種の神宝(かむたから)、沖津鏡(おきつかがみ)、辺津(へつ)鏡、八握剣(やつかのつるぎ)、九握(こつかの)剣、十握(とつかの)剣、生玉(いくたま)、死返(まかるかえしの)玉、足(たる)玉、道返(ちかえしの)玉、蛇比礼(おろちのひれ)、蜂(はちの)比礼、品々(くさぐさの)比礼です。
ム、一(ひと)、二(ふた)、三(み)、四(よ)、五(いつ)、六(む)、七(なな)、八(や)、九(ここ)、十(たり)、ウ、です。
ウ、十(たり)、九(ここ)、八(や)、七(なな)、六(む)、五(いつ)、四(よ)、三(み)、二(ふた)、一(ひと)、ム、です。
唱えなさい。宣(の)り上げなさい。
第六帖(七九三)
天照大神(あまてらすおほかみ)は、高天ノ原(たかあまのはら)をしらすべし。また、高天ノ原をしらすべし。また高天原(たかあまはら)をしらすべし、月読大神(つきよみのおほかみ)は、天照大神とともに、天(あめ)のことをしらすべし。
また、あお海原(うなはら)、汐(しほ)の八百会(やほへ)をしらすべし。また、夜の食(お)す国をしらすべし。
スサナオの大神は、あお海之原(うなのはら)をしらすべし、また、あお海原(うなはら)をしらすべし。また、天(あめ)ヶ下(した)をしらすべし。
第七帖(七九四)
大奥山は神人交流の道の場です。道は口で説くものではありません。行動するものです。教えは説かねばなりません。
多数決が悪多数決となるわけがなぜ分からないのですか。投票で代表を出すとほとんどが悪人か狂人です。
世界が狂い、悪となり、人民も同様になっていますから、その人民の多くが選べば選ぶほど、ますます混乱してくるのです。
それより他に人民の得心出来る道はないと言っていますが、道はいくらでもあります。人民の言っているのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体に綾(あや)なせば弥栄えて真実の道が分かります。
しかし独裁ではいけません。結果から見れば神裁です。神裁とは神人交流によることです。(十二月二十五日)
神は嘘つきだと人民が言っても、悪い予言は嘘にしたいので日夜の苦労、堪(こら)えられるだけ堪えているのです。
もう、モノばかりでは治まらないのです。金では治まらないのです、平面のみでは駄目であること、よく分かっているのに兜を脱げない神々様よ、気の毒が来ない前に改心するのは結構なことです。
遠くからでは分からないし、近付くと迷うし、理屈を捨てて神に惚れ参らせてください。よくこの神を騙してくれたものです、この神が騙せされたればこそ、太神の目的が成ってくるのです。細工はりゅうりゅう仕上げて見てください。
区別すると力が出ます、同じであってはなりません。平等でなくてはなりませんが、区別のない平等は悪平等です。
天に向かって石を投げるようなことは、早く止めないといけません。霊かかりも止めてくださいな。
人民が絶対無と言っているところも、絶対無ではありません。科学を更に浄化し弥栄させねばなりません。
空間、時間が霊界にないのではありません。その標準が異なるから無いと考えてよいのです。
奥山は奥山と言ってありましょう。いろいろな団体を作ってもよいですが、いずれも分かれ出た集団、一つにしてはなりません。奥山は有りて無きもの、無くて有る存在なのです。
奥山と他のものとをまぜこぜにすることは決してしてはいけません。大きな一つではありますが別々なのです。
今までになかった奥山のあり方、分からないのも無理はありませんが、これが分からないとこの度の大神業は、けっして分からないでしょう。
第八帖(七九五)
神の御用は、神のミコトのままでなくては成就しません。皆々釈迦です、キリストです。もっと大きな計画を持ちなさい。着手は出来るところからしなさい。つかめるところから神をつかみなさい。部分から作り上げなさい。
我を出してはなりません。あなたはそれでいつもしくじっているではありませんか。天狗ではいけません。
心が出来たら足場を固めないといけません。神の足場は人です。三千の足場、五千の足場。
第九帖(七九六)
気の合う者のみの和は和ではありません。色とりどりの組み合わせ、練り合わせこそが花が咲くのです。
すべてが神の子なのです。大神の中で弥栄なのです。大きな心、広い心、長い心は結構です。
なかなかに合わないと言いますが、一つの家族ではありませんか。心得なさい。
夫婦喧嘩はしないように。夫のみがいけないのではありません。妻のみが悪いのではありません。お互いに自分の姿を出し合っているのです。よく会得しなさい。
分からないことが更に分からなくなります。聞きたいことは何でも聞きなさい。大グレ目の前。阿呆になりなさい。
ひとまずは月の代となります。ひっくり返り、ビックリです。