日月神示 碧玉之巻 第十帖から第十二帖

第十帖

 

 岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐(イザナギ))ナミ(伊邪那美(イザナミ))の命(ミコト)の時なのです、ナミの神が火の神を生んで黄泉国(よみのくに)に入られたのが、そもそもなのですよ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのです、十二の卵を生んだことにもなるのですよ、五つの卵を四つ生んだとも言えるのですよ、すべて神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことなのですが、それでちゃんと道にはまっているのですよ。一(ひと)ヒネリしてあるのです、天と地との間に大きなレンズがあると思えばだんだんにわかってきますよ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸が閉められたのである道理、わかるでしょう。その後独(ひと)り神(がみ)となられた夫神が三神をはじめ、いろいろなものをお生みになったのですが、それが一方的であることは言うまでもないことでしょう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国のすべてを生み育て給うたのですよ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引(ちび)きの岩戸を開かれて相抱(あいいだ)き給う時節来たのですよ、嬉(うれ)し嬉しの時代となって来たのですよ。同じ名の神が至るところに現われて来るのですよ、名は同じでも働きは逆なのですよ、この二つが揃って、三つとなるのですよ、三が道ですと知らせてありましょう。時来たりなばこの千引きの岩戸を共に開かんと言ってありましょう。

 

 次の岩戸閉めは天照大神の時です、大神はまだ岩戸の中にましますのです、騙(だま)した岩戸からは騙した神がお出ましですと知らせてありましょう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃(そろ)うてお出まし近うなって来ました。

 

 次の岩戸閉めは素サ鳴命(スサナルノミコト)にすべての罪を着せて根(ね)の国に追いやった時ですよ、素サ鳴命は天ヶ下(あめがした)を治(しろ)しめす御役(おんやく)の神なのですよ。天ヶ下は重きものの積もりて固まりたものであるから罪と見えるのであって、よろずの天の神々が積(つ)もる(という)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤ってしまったので、これが正しく岩戸閉めであったのです、命(ミコト)を荒ぶる神なりと言って伝えていますが、荒ぶる神とは粗暴な神ではないのですよ、暴れ廻り、壊し廻る神ではないのですよ、アラフル(現生る)神なのですよ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神なのですよ、取り違いしていて申し訳ないでしょう。このことよく理解出来ないと、今度の大峠は越せませんよ。絶対の御力を発揮し給う、ナギ・ナミ両神が、天ヶ下を治(し)らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神なのですよ。素サ鳴の命(ミコト)にも二通りありますよ、一神で生み給える御神と、夫婦呼吸を合わせて生み給える御神と二通りありますよ、間違えてはならないことですよ。

 

 神武天皇の岩戸閉めは、御自(おんみずか)ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの御動きをなされたからなのです。神の世から人の世への移り変わりの事柄を、一応、岩戸に隠して神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイハレヒコノミコト)として、人皇として立たれたのですから、大きな岩戸閉めの一つなのですよ。

 

 仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光が射していたのですが、仏教と共に仏魔渡り来て、完全に岩戸が閉められて、暗闇の世となったのですよ、その後はもう乱れ放題、やり放題の世となったのですよ、これが五度目の大きな岩戸閉めなのですよ。

 

 

第十一帖

 

  宇宙のすべてが高天原(たかあまはら)なのですよ。天照大神は高天原を治(しら)し、また高天原を御(しら)し、また高天原を知らす御役(おんやく)、月読(つきよみ)大神は天照大神と並びて天のことを知らし、またあほうなはらの汐(しほ)の八百路(やほじ)を治し、また夜の食(お)す国を知らす御役、素サ鳴の大神はあほうなはらを治し、また滄海之原(あおうなのはら)を御(しら)し、また、天ヶ下(あめがした)を知(し)らす御役なのですよ。

 

 

第十二帖

 

 捧げるもの、与えるものは、いくらでも無限にあるではないですか、捧げよ捧げよ、与えよ与えよ、言(ことば)こそは誰もが持てる其(そ)の捧げものなのですよ、与えても与えても無くならないマコトの宝なのですよ。