日月神示 冬の巻 全一帖(七七〇)、補帖一帖(七八七)

第三十巻

 

冬の巻(全一帖、補帖一帖)

 

自 昭和二十七年五月五日

至 昭和二十七年六月九日

 

 

全一帖(七七〇)

 

 宇宙は霊の霊と物質とからなっているのです。人間もまた同様なのです。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあるものは皆宇宙にあります。人間は小宇宙といって、神の雛形(ひながた)と言ってありましょう。人間には物質界を感知するために五官器があります。霊界を感知するために超五官器があります。神界は五官と超五官と和して知り得るのですよ、この点誤らないでください。霊的自分を正守護神といって、神的自分を本守護神といいます。幽界的自分が副守護神です。本守護神は大神の歓喜ですよ。

 

 神と霊は一つであり、幽と現、合わせて三です。この三は三にして一、一にして二、二にして三なのです。故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もないのです。神界から真っ直ぐに感応する想念を正流といいます。幽界を経てまた幽界より来る想念を外流といいます。人間の肉体は想念の最外部、最低部をなすものであるから肉体的動きの以前において霊的動きが必ずあるのですよ。故に人間の肉体は霊の容(い)れ物と言ってあるのですよ。

 

 また物質界は、霊界の移写であり、衣ですから、霊界と現実界、また霊と体とはほとんど同じもの、同じ形をしているのですよ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのです。人間は霊界より動かされますが、また人間自体より醸(かも)し出した霊波は反射的に霊界に反映するのです。人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反映するのです。幽界は人間の心の影が生み出したものと言ってありましょう。

 

 すべては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に、大神が生み給うたのです。このことよくわきまえて下さいね。善のこと悪のこと、善悪のこと、よくわかって来るのですよ。故に、人間の生活は霊的生活、言(こと)の生活なのです。肉体に食うことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊なのです。霊は言です。この点が最も大切なことですから、くどく言っておきますね。

 

 死んでも物質界とのつながりはなくなりません。生きている時も霊界とは切れないつながりがあること、とくと会得してください。そなたたちは神をまつるにも、祖先まつるにも、物質の目当てつくるでしょう。それはまだまだ未熟なことですよ。

 

 死後においても、現実界に自分があります。それはちょうど、生きている時も半分は霊界で生活しているのと同じことなのです。自分の衣は自分の外側なのです。自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、家にいる自分を霊とすれば土地は体なのですよ。さらに祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分ですよ。兄弟姉妹は最も近い横の自分なのです。人類は横の自分、動、植、鉱物はさらにその外の自分なのです。切り離すことは出来ません。

 

 自分のみの自分はないのです。一切は自分なのです。一切がよろこびなのです。

 

 霊界における自分は、ことに先祖との交流、交渉深いのです。よって、自分の肉体は自分のみのものではないのです。先祖霊と交渉深いのです。神はもとより一切の交渉あるのです。その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとがあります。中間に属するものもあります。神界に属するものは、正流を通じ、幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してきます。正流に属する祖先は正守護神の一柱(ひとはしら)であり、外流に加わるものは、副守護神の一柱と現われてくるのですよ。外流の中には、動植物霊も交わってくることがあります。それは己の心の中にその霊と通ずるものがあるためですよ。

 

 一切が自分であるためです。常に一切を浄化しなければなりません。霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからです。霊体一致が喜びの根本なのですよ。一つの肉体に無数の霊が感応し得るのです。それは霊なるが故にです。霊には霊の霊が感応します。また高度の霊は無限に分霊するのですよ。

 

 二重三重人格というのは、二重三重の憑きものの転換によるものであり、群集心理は一時的の憑依霊であると言ってありましょう。霊が元と言ってくどく知らしてありましょう。人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからないといけません。それが人間の使命の最も大切なことなのですよ。

 

 調和乱すのは悪ですよ。人間のみならず、すべて偏(へん)してはなりません。霊に偏してもなりません。霊も五、体も五と言ってありましょう。しかし主は霊であり体は従です。神は主であり、人間は従なのですよ。五と五と同じであると言ってありましょう。差別則(そく)平等と言ってありましょう。取り違いは禁物ですよ。

 

 神は愛と現われ、真と現われるのですが、その根はよろこびなのです。神の子は皆よろこびです。よろこびは弥栄なのです。しかしよろこびにも正流と外流があります。間違えてはなりませんよ。正流の歓喜は愛と善となって現われて、また真の信と現われるのです。外流のよろこびは愛の悪となって現われるのです。いずれも大神の現われであることを忘れないでくださいね。

 

 悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄があるのです。神は弥栄です。これでよいということないのですよ。大完成から超大大完成へ向かって常に弥栄しているのです。宇宙はすべてにおいても、個々においてもすべてよろこびからよろこびに向かって呼吸しているのです。よろこびによって創られてよろこんでいるのですよ。故によろこびなくして生きないのです。合一はないのです。

 

 愛は愛のみではよろこびではないと言ってありましょう。真は真のみでは喜びではないと言ってありましょう。愛と真と合一し、ゝするところに、陰と陽と合一、弥栄したところによろこびがあるのです。この巻、冬の巻。五月五日の佳(よ)き日。ひつく神。

 

 

補帖(七八七)

 

  病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆己(おのれ)からです、と言ってありましょう。誰でも、何でもよくなるのが神の道、神の御心(みこころ)です。親心です。悪くなるということはないのですよ。迷いが迷いを生むのです。もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみなのです。神がよろこびですから、その生んだもの皆よろこびなのですよ。この道理よくわきまえてくださいね。毎日毎日、太陽と共に、太陽について起き上がりなさい。その日の仕事、与えられますよ。仕事いのちと仕えまつりなさい。朝寝するからチグハグとなるのです。不運となるのです、仕事なくなるのです。神について行くことが祈りなのですよ。よろこびなのですよ。食物、食べ過ぎるから病になるのです。不運となるのです。口から出るもの、入るもの気をつけなさいな。戦(いくさ)起きますよ。人間の病や、戦ばかりではない、国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってきますよ。食べないで死ぬことはないのです。食べるから死ぬのです。

 

 一椀(ひとわん)をとってまず神に供えなさい。親に捧げなさい。子に捧げなさい。腹八分の二分は捧げなさい。食物こそは神から、親から与えられたものなのです。神に捧げずにむさぼるからメグリ積むのですよ。メグリが不運となり、病となるのですよ。運ひらくのも食物慎(つつし)めばよい。言(こと)慎めばよい。腹十分食べてはこぼれる。運はつまってひらけない。このわかりきったこと、何故にわからないのですか。

 

 捧げるからこそ頂けるのですよ。頂けたら捧げると今の人民言っていますが、それが裏腹(うらはら)というもの。衣類も家も土地も、みな神から頂いたのではないのですよ。預けられているのですよ。人民に与えられているものは食物だけです。日の恵み、月の恵み、地の恵みだけです。その食物節してこそ、捧げてこそ、運ひらけるのです。病治るのです。人民ひぼしにはなりません。心配無用。食物、今の半分で足りると言ってありましょう。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なさいな。運ひらけ、病治って嬉し嬉しと輝きますよ。そんなことくらいで、病治ったり、運ひらけるくらいなら、人民はこんなに苦しまないと言いますが、それが理屈というものです。理屈悪と言ってあるもの。低い学に囚われた盲、聾というものですよ。

 

 理屈捨てなさい。捨ててやって見なさい。みなみな気つかない道、気つかない病になっていますよ。憑きものがたらふく食べていることに気づかないのですか。食物節すれば憑きもの改心しますよ。まず百日を目当てに、百日過ぎたら一年を、三年続けたら開運間違いなし。病もなくなって嬉し嬉しとなりますよ。三年目、五年目、七年目ですよ、めでたいナア、めでたいナア。六月九日、ひつくの神。

 

 以上