日月神示 秋の巻  第二十一帖(七六二)から第二十八帖(七六九)

第二十一帖(七六二)

 

 和が根本、和がよろこびです。和すには神を通じて和すのですよ。神を通さずに、神をなくして通ずるのが悪和合。神から分かれたのですから神に還って、神の心に戻って和さねばならない道理。神なくして和はないのです。世界平和と言っていますが、神に還って、神に通じなければ和平なく、よろこびないのですよ。十二の玉を十まで生んで、後二つ残してありますよ。

 

 

第二十二帖(七六三)

 

  神に融(と)け入れと言ってありましょう。次元が違うから、戒律出来るから、わからないのです。融け入りなさい。何につけても大戦(おおいくさ)。人の殺し合いばかりでないと知らしてありましょう。ビックリですよ。

 

 

第二十三帖(七六四)

 

  神が主であり人民が従であると言ってありましょう。これを逆にしたから世が乱れているのですよ。結果あって原因あるのではないのです。今の人民、結構すぎて天地の御恩ということ忘れていますよ。いよいよとなって泣面(なきつら)しなければならないことわかっているから、くどく気をつけているのですよ。マコトのことは酉(とり)の年。

 

 

第二十四帖(七六五)

 

  上から見ると皆人民です。下から見ると皆神です。わかったと思っていますが、神の経綸が学や金銀積んで、チョットやソットでわかるはずないのですよ。今までの、三千年のやり方違っていたと心つくなれば、心付いて神示読むなれば、一切のことありやかとなるのです。肝心です。

 

 

第二十五帖(七六六)

 

  ウはムです。ウとは現実界です。ムとは霊界です。ウもムも同じです。ムからウ生まれて来ると言ってあること、よく心得なさい。神の仕組、狂いないけれど、人民にわからなければ、それだけこの世の歩み遅れるのですよ。この世は人民と手引かねばならないから、苦しみが長くなるから、千人万人なら一人ずつ手引いてやりてもやりやすいなれど、世界の人民、動物虫けらまでも助ける仕組ですから、人民早く改心しなければ、気の毒いよいよとなりますよ。

 

 

第二十六帖(七六七)

 

  中は無、外は有ですよ。中になるほど無の無となるのですよ。同じことくり返すと、人民言うでしょうが、得心していないから、肝心のことだから、クドう言っているのですよ。人民それぞれのミタマによって役目違うのですよ。手は手、足は足と言ってありましょう。何もかもマゼコゼにやるから結びつかないのです。

 

 

第二十七帖(七六八)

 

 型にはまることをカタマルと言うのです。凝(こ)り固まっては動きとれません。固まらねば型出来ないので、人民にはわからないし、型外して、型をつくらねばなりません。法律つくらねばなりませんが、つくってもなりませんよ。神から命令されたミタマでも油断は出来ません。雲ったらすぐ代わりのミタマと入れ替えるのですよ。凝り固まったものがケガレです。ケガレはらさなければなりません。絶えず祓って祓って祓いつつ、また固まらねばならないし、人民にはわからないし、肉体あるから固まらねばならないし、常に祓いしなければなりません。すべてをこんなものだと決めてはなりませんよ。ゝ枯れることをケガレと言うのですよ。わかりましたか。神界の立て替えばかりでは立て替え出来ません。人民界の立て替えなかなかですネ。

 

 

第二十八帖(七六九)

 

 霊はモノにつくと言ってありましょう。祓いする時はモノにつけて、モノと共にしなさい。共に祓いなさい。これほどマコト言っても、残る一厘はいよいよのギリギリでないと言えないから、疑うのも無理ないのですが、見ていなさい。神の仕組、見事成就致しますから。一厘のことは知らされないと言ってありましょう。言うと仕組成就しないのです。知らさないので、改心遅れます、心の心で取って下さいね。肉体は霊の衣と言ってありましょう。衣が霊を自由にしてはなりませんよ。衣には衣の約束あるのですよ。衣だといって粗末してはなりません。いずれも神の現われですよ。内には内の内があり、外には外の外があります。人ほめなさい。人ほめることは己ほめることです。この巻、秋の巻。四月十一日、ひつく神。