日月神示 春の巻 第一帖(六四八)から第六帖(六六三)

第二十七巻

 

春の巻(全六十帖)

 

自 昭和二十七年旧一月一日

至 昭和二十七年二月十五日

 

 

第一帖(六四八)

 

 新しき御代(みよ)の始めの辰(たつ)の年。スメ大神の生(あ)れ出(い)で給いぬ。皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからですと言ってありましょう。始めの始めと始めが違います。皆始め一(ヒ)からです。赤児になりて出直しなさい。肚(はら)で見、肚で聞き、肚で話しなさい。肚には間違いないのですよ。祈りばかりでは祈り地獄、神から光戴けるように道つけねばなりません。水は低きに流れます。喜びに叶う心、喜びの行あるところ喜び来るのです。喜びにも正しきと曲れるとありますよ。無限段階あるのです。心して迷わないように致してくださいね。此処は光の道伝え、行う所、教えでないと言ってありましょう。教えは教えに過ぎません。道でなくては、今度はならないのです。天の道、地の道、もろもろの道、カタ早く急ぎなさい。教えは局部的、時、所で違いますよ。迷信となりますよ。肚が神ですよ。

 

 

第二帖(六五九)

 

  神人(かみひと)というのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことですよ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのです。自分のためばかりで祈れば迷信、我(わ)れ善(よ)しの下(げ)の下ですよ。誰でも霊かかりです。石でも木でも土でも霊かかりです。これは一般かみかかりです。特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのです。九分通りしくじるのです。太陽の光集めること知っているでしょうが。神の理(みち)をよりよく、より高く集める道がマコトの信仰です。ミチです。世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると言っている時来ているのですよ。悪かみかかりに迷うことのないように。サニワしなさい。外はウソが多いのです。内の声ウソではありませんよ。旧、元旦、日月神。

 

 

第三帖(六六〇)

 

  掛巻(かけまく)も、畏(かしこ)き極(きわ)み、九二(くに)つ千(ち)の、清(すが)の中なる大清(おおきよ)み、清みし中の、清らなる、清き真中(まなか)の、よろこびの、其(その)真中なる、御光(みひかり)の、そが御力(みちから)ぞ、綾(あや)によし、十九立(トコタチ)まし、大九(オオク)二の、十九立大神(トコタチオオカミ)、十四九百(トヨクモ)ヌ、十四(トヨ)の大神、瀬織津(せおりつ)の、ヒメの大神、速秋(ハヤアキ)の、秋津(アキツ)ヒメ神、伊吹戸(イブキド)の、主(ヌシ)の大神、速々(ハヤバヤ)の、佐須良(サスラ)ヒメ神、これやこの、太日月(不明記号)(オオヒツキクニ)、皇神(スメカミ)の、御前畏(みまえかしこ)こみ、慎(つつし)みて、うなね突貫(つらぬ)き、白(まお)さまく、ことの真言(マコト)を、伊行(いい)く水。流れ流れて、月速(つきはや)み、いつの程(ほど)にや、この年(とし)の、冬も呉竹(くれたけ)、一(ひ)と夜(よさ)の、梓(あづさ)の弓の、今とはや、明(あ)けなむ春の、立ちそめし、真玉新玉(またまあらたま)、よろこびの、神の稜威(みいづ)に、つらつらや、思い浮べば、天地(あめつち)の、始めの時に、大御祖神(オオミオヤ)、九二十九立(クニトコタチ)の、大神伊(オオカムイ)、三千年(みせとし)、またも三千年の、もまた三千年、浮きに瀬(せ)に、忍び堪(た)えまし、波風の、その荒々し、渡津海(ワタツミ)の、塩の八百路(やほじ)の、八汐路(やしほじ)の、汐(しお)の八穂合(やほあ)い、洗われし、孤島(こじま)の中の、籠(こも)らいし、籠り玉(たま)いて、畏(かしこ)くも、この世かまいし、大神の、時めぐり来て、一筋(ひとすじ)の、光の御代(みよ)と、出(い)でませし、めでたき日にぞ、今日の日は、御前畏み、御饌神酒(みけみき)を、ささげまつりて、海山野(うみやまぬ)、種々珍(くさぐさうづ)の、みつきもの、供えまつりて、かごぢもの、ひざ折り伏(ふ)せて、大まつり、まつり仕(つか)えむ、まつらまく。生きとし生ける、まめひとの、ゆくりあらずも、犯(おか)しけむ、罪や穢(けが)れの、あらむをば、祓戸(はらへど)にます、祓戸の、大神達(おおかみたち)と相共(あいとも)に、ことはかりまし、神直日(かみなおひ)、大直日(おおなおひ)にぞ、見伊(みい)直し、聞き直しまし、祓(はら)いまし、清め玉いて、清々(すがすが)し、清(すが)の御民(みたみ)と、きこし召(め)し、相諾(あいうべな)いて、玉えかし、玉われかしと、多米津(ためつ)もの、百取(ももとり)、さらに、百取の、机の代(しろ)に、足(た)らわして、横山(よこやま)の如(ごと)、波(なみ)の如、伊盛(いもり)、栄(さか)ゆる、大神の、神の御前(みまえ)に、まつらまく、こいのみまつる、畏(かしこ)こみて、まつらく白(まお)す、弥(いや)つぎつぎに。

 

 新玉(あらたま)の玉の御年(みとし)の明け初(そ)めて罪(つみ)もけがれも今はあらじな。

 

 節分の祝詞(のりと)ですよ。太(ふと)祝詞しなさい。いよいよの年立ち初(そ)めました。嬉し嬉しの御代(みよ)来ますよ。(一月の三十日 日月神。)諾う

 

 

第四帖(六六一)

 

 (記号不明①)がよろこびですよ。(記号不明②)もよろこびですよ。よろこびにも三つありますよ。(記号不明①)は表、(記号不明②)は裏、表裏合せて(〇に十字の記号)です。(〇に十字の記号)は神ですよ。神なのですが現われの神であり、現われのよろこびですよ。(〇に十字の記号)のもとが(記号不明)ですよ。キですよ。元の元の太元の神ですよ。△(ム)です。△(ム)から▽(ウ)生まれ、▽(ウ)から△(ム)生まれますよ。同じ名の神二つあると言ってありましょう。表の喜びがゝ、愛、真、善、美となり現われ、裏の喜びからは、〇、憎、偽、悪、醜が現われるのですよ。喜びが神ですといって裏の喜びではいけませんよ。今の人民の喜びというのは裏の喜びですよ。悲しみを喜びと取り違えていますよ。この巻、春の巻。こまかに説いてわかりやすく説いてきかせますよ。分ければそれだけ小さくなりますが。

 

 

第五帖(六六二)

 

 人民栄えて行くことは、神、弥栄のことです。神も人民も、世界も、宇宙も、すべていつまでも未完成です。神様でも大神様はわからないのですよ。ただ、よろこびに向かってひたすらに進んで行けばよいのです。正しき喜びをまず見極めなさい。見極めてひたすらに進めばよいのです。食物を食べるのも喜びですよ。正しき食物正しく食べなさい。さらに喜び増えて弥栄えるのです。自分の喜びを進め進めて天国へ入ること出来るのです。悪い食物悪く食べるから悪くなるのです。目に見える食物ばかりではありません。何もかも同様です。人民は喜びの子と言ってありましょう。罪の子ではありません。嬉し嬉しの道あるに、何故歩まないのですか。

 

 

第六帖(六六三)

 

 喜びがゝ、真、善、美、愛と現われ、それがまた、喜びとなり。また、ゝ、真、善、美、愛となり、また現われ、限りないのです。喜びの本体はあの世、現われはこの世、あの世とこの世合わせて真実の世となるのです。あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就しませんよ。あの世とこの世と合わせ鏡。神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世を(記号不明)として、心として生命しているのです。神人と言ってありましょう。この道理よくわきまえなさい。この世にあるものの生命はあの世のもの、あの世の生命の衣はこの世のもの。くどいようなれどこのこと肚の中に、得心なさってくださいね。これが得心出来ねばどんなによいことをしても、まこと言っても何もなりません、泡沫(うたかた)ですよ。時節来たのですから、今までのように一方だけではなりませんよ。