日月神示 白銀の巻 第三帖(六一四)から第七帖(六一八)

第三帖(六一四)

 

 (不明記号)の中のゝの(不明記号)は一であり、二とひらき、三と生命します。理は一(ヒ)で二(フ)で、三(ミ)であると言ってありましょう。一(ヒ)も二(フ)も三(ミ)も同じであり、違って栄えるのですよ。一二三(ヒフミ)なのですよ。このこと教えられてもわからないでしょう。ハラでわかる大切こと、ハラ大切なのですよ。かたまってはなりません。ゝに囚(とら)われるとゝはわかりません。地の定規で測ってはなりません。如何(いか)なる天国も自分でつくるのです。そろばん捨てなさいと言ってありましょう。よろこびは理(ミチ)なのです。数です。言です。真理です。愛善です。生命のイキということわかるでしょう。天国というのは一人の大きな人間なのです。天国は霊人のみの住む所ではありません。そなたたちも今住んでいるではないですか。霊人も現界に住んでいるではないですか。現界を離れて天国のみの天国はないのですよ。故にこそ、現界で天国を生み出し、天国に住めないものが、死んで天国へ住める道理ないのです。アメツチと言ってありましょう。この道理よくわきまえなさい。善とか悪とか真とか偽とか愛とか憎とかいうのは相対の天国なのです。まことの天国には喜びのみが生きているのですよ。喜びの中に融け入って、喜びのものとなっているのです。喜び食し、喜び着、喜びを呼吸し、喜び語り合って嬉し嬉しとなるのです。要らないものは形が変わって来ます。新しき生命湧き出るのですよ。善が悪と、真が偽と変わった時は死となります。その死は新しき別の生命と現われて、新しき形の、新しき世界の善となり真となるのです。善も悪もないのですと言ってありましょう。善悪はありますが無いのですと言ってあることわかりましたか。自分自身、己の為の善は死し、全の為の善は弥栄えるのです。死んだものは新しき形をとって生命するのですよ。弥栄の道、神の喜び人間の喜びの中にあるのです。愛だと言って愛に囚われていますよ。真だと言って真に囚われていますよ。喜びに生きなさい。宗教に囚われてはなりません。道に囚われてはなりません。喜びに生きて、喜びに囚われないように。お互いに喜びの湧き出づることでなければ真の道ではありません。道なき道と言ってありましょう。喜びが道なのです。嬉し嬉しの道、早く合点しなさい。生命栄えるもの皆喜びなのです。信仰とは、その喜びの中に融け入ることです。生も死もなくなるのです。時間や空間を入れるから、血、通わなくなるのですよ。(一月二日)

 

 

第四帖(六一五)

 

 凹凸(おうとつ)あるから力現われるのですよ。凹凸あるため、善のみでも呼吸し、また真のみでも呼吸(いき)するのです。偽善者も真を語り、真を伝え得るのです。愛を言い得るのです。幽界というのは凸凹の写しの国と言ってありましょう、地獄ではないのです。仙人は幽界に属しているのですと聞かせてありましょう。取り違いしていますよ。愛は真と和して愛と生き、真は愛と和し、愛によって真の力現われますが、愛のみでも愛なのです。真のみでも真なのです。ただはたらき無いのです。能(ハタラキ)ないもの力ないのです。喜びないのです。喜びないもの亡びるのです。ゝ入らねば悪となります。能なきもの罪です。穢れです。善と悪と二道かけてはなりませんよ。道は一本と言ってありましょう。悪は悪として御役あります。悪と偽りの中に悪の喜びありますよ。善と悪の二道の中には、二道かけては喜びないのです。喜びないもの亡びるのです。御役の悪とは悪と偽りの悪なのですよ。悪と善との二道かけての悪ではないのです。心しなさい。悪は悪にのみ働きかけ得るのです。善に向かって働いても、善はビクともしないのです。ビクつくのは、悪に引き込まれるのは、己に悪あるからです。合わせ鏡と言ってありましょう。悪の気断ちて下さいと言ってありましょう。心の鏡の凸凹無くなれば悪うつらないのです。悪は無きものですよ。無きとは力無きことです。悪あればこそ向上するのです。悔い改め得て弥栄するのですよ。人間の能あるのです。ゝを忘れてはなりません。(一月二日)

 

 

第五帖(六一六)

 

 人間に自由はないのですよ。真の自由は、大神にのみあるものです。大神の自由の一部が御喜びと共に神に流れ入り、神に流れ入った自由は、また神の喜びとなって人間に流れ入るから、人間自身は自由を持っていると信ずるのですよ。本質的には自由はないのです。人間には自由の影があり、反映があります。それを人間は自由と心得ているのです。自由の反映あるから、悪にも善にも、陽にも陰にも為し得るのです。また進歩、弥栄するのです。悪自由を、人間は自由と心得ていますが、それは自由ではなく、自分自身を首くくるものですよ。善自由こそ真の自由です。自由は神から流れ出ると言ってありましょう。他の世界と交流するは、他の世界に住む人間を通じてするのです。世界とは人間のことでもあります。人間が世界なのですよ。よく心得なさい。+(陽)と-(陰)と〇とゝですよ。+の陰には-があり、-の陰には+があります。その和の状態が〇でありゝ(イノチ)するのです。+は+のみでは力ありません。-は-だけでは力ありません。+と-とだけでも動きありません。生命の喜びないのです。よく心得なさい。〇があって+-があり、+-がありゝがあって和があるのです。ここの道理よく得心、合点しなさい。+は人間にとって直接の喜びではありません。(不明記号)が直々(じきじき)の喜びです。-も直接ではなく、(不明記号二つ)が直接の喜びであり、その二つが和しゝして嬉し嬉しと弥栄えるのです。天地の中間を中界と言います。天の息吹と地の息吹の中間です。天国へ行くのも、行かないのもまず落ちつく、死後の初めての世界なのですよ。(一月二日)

 

 

第六帖(六一七)

 

 元の元の(〇の中にム)から(不明記号)、(不明記号)の中界を経(へ)て、ウの現界に至る悉(ことごと)くの世界が皆人間に関係あるのですから、肉体はウですが、魂は(〇の中にム)に通じているのですから、(〇の中にム)はヨロコビですから、喜びが人間の本体ですから、神界と言い、現界と言い、一本の国ですから、人間からすれば、人間が土台ですから、神の礎(いしずえ)ですから、神鎮(しず)まれば神人(かみひと)となるのですから、神界、中界、現界つらぬきていなければ、マコトの和合していなければ、マコトの喜びでないから、マコトの喜びが大神ですから、大神の働きは人間によるものですから、心しなければなりません。ゝしなければなりません。天使と言い、天人と言うも、みなそれぞれの国の人間ですから、喜びの人間ですから、この道理わかったら、地の世界と、中の世界と、天の世界と、みな同じですから、持ちつ持たれつですから、三千世界ですから、地の上に禍(わざわい)あると、天の国にも禍(わざわ)うのですから、天の国の生活は地の上に根をつけているのですから、遠くにあるのではないのですよ。同じ所にあるのですよ。幽界というのは道を外れた国のことだと知らせてありましょう。地獄無いと言ってありましょう。このこと間違わないように、地獄地獄の言葉、やめて下さいね。言葉からモノ生むのですよ。ただモノが違うのみですから、人間の心が神に通ずるときは喜びとなり、幽人に通ずるときは悲しみとなるのです。通ずる心あるから心に自由あるのですよ。弥栄あるのですよ。この道理よくわきまえて下さいね。天人に結婚もあれば仕事もありますよ。死もまたあるのですよ。死とは住む段階の違う場合に起こる現象です。死とは生きることです。人間は皆、神かかっているのです。神かかっていないもの一人も居ないのです。神かからないものは呼吸しないのです。このことわかっていましょう。霊人は人間の心の中に住んでいるのです。心を肉体として住んでいるのです。その中にまた住んでいるのです。平(ひら)たく説いて聞かしているのですよ。霊人と和合しているから、神かかりであるからこそ、三千世界に働き栄えるのです。神界のこともわかる道理です。幽界のこともわかる道理です。人間の言うかみかかりとは幽界のカミかかりです。ロクなことないのです。神かかりにも、神かかりとわからない神かかり結構ですね。まことですねと知らせてあるのにまだわからないのですか。(五月八日)

 

 

第七帖(六一八)

 

 天国が写って地が出来ているのですから、霊の国はさらに立派、微妙です。天界のもの光り輝き幽界のもの暗くなる違いあるだけです。その時の状態によって変化しますが、すべては神が与えたのです、現界同様、与えられているのですと知らせてありましょう。時間、空間もあるのですが、ないのですよ。同じ状態にあれば同じ所に住み、変化すれば別の所に住むのですよ。見ようと思えば、念の中に出て来て、見ること、語ること出来るのです。見ないとすれば見えないのです。自分で見、自分で語るのです。時、所、位、すべてが想念の中、想念のままに現われて来るのです。わかるように言うならば、時間も空間も映像であって、情態が変わるのみのことですよ。情態のもと、本質は限りないから、無限ですから、自由ですから、霊界は無限、絶対、自由自在なのです。現界では、時間に順に得たものでも、心の中では時間に関係なく、距離に関係なく、一所(ひとところ)へ並べられるでしょう。心の世界で、時間、空間のない道理これでよくわかるでしょう。(五月八日)