日月神示 地震の巻 第十八帖

第十八帖

 

 神から出る真・善・美・愛の用に奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜です。故に、霊界における霊人たちの職業は、その各々の有する内分により、段階によって自ら定まります。為にその用は無数であり、かつ千変万化します。歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業です。故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩します。霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多用ですが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られます。そして、そのいずれもが神の秩序、すなわち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしているのです。故に、いずれの面の用をなすとも、自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなります。なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということです。すなわち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのです。為に、命令的なものはありません。ただ、ひたすら奉仕があるのみなのです。その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがあります。何故ならば、霊と物とは対応しているからです。生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用を繰り返しつつ弥栄えています。従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができます。陽人と、陰人とです。陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人のために存在します。太陽は太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し歓喜するのです。この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反しています。故に、二は一となり、三を生み出すのです。これを愛と信の結合、または結婚とも称えられています。三を生むとは、新しき生命を生み、かつ歓喜することです。新しき生命とは新しき歓喜です。歓喜は、物質的形態はありませんが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものです。霊界における春は、陽であり、日と輝き、かつ力します。秋は、陰であり、月と光り、かつ力します。この、春秋の動きを、また、歓喜と呼ぶのです。春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも言い得ます。また、悪があればこそ生長し、弥栄し、かつ救われるのです。故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものなのです。