日月神示 地震の巻 第七帖

第七帖

 

 地上には、地上の順序があり、法則があります。霊界には、霊界の順序があり、法則があります。霊界が、原因の世界であるからといって、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのです。また地上の約束を、そのまま霊界では行い得ません。しかし、これらのすべては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのです。その秩序、法則、統一は、一応完成しているのですが、その完成から次の完成へと弥栄します。故にこそ弥栄の波長をもって全体が呼吸し、脈搏し、歓喜するのです。これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見る時は、悪を許し、善の生長弥栄を殺すがごとくに感ずる場合もあります。しかし、これこそ善を生かして、さらに活力を与え、悪を浄化して必用の悪とし、必然悪として生かすのです。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのです。本来悪はなく暗はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばなりません。これは生前、生後、死後の区別なく、すべてに通ずる歓喜です。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚(とら)われの水の世界であったことを体得します。さらに一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様です。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別ですが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ないごとく、地上人に至りては極めて稀(まれ)であることを知らなくてはなりません。悪を悪なりと定めてしまって、悪はすべて祖先より、あるいは原因の世界より伝えられたる一つの因果であるという平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べたところで明白となり、己を愛するは、まず悪の第一歩なりと考えます。その考えが悪的であることを知らねばなりません。来たるべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなります。しかし、それが最高の理想郷ではありません。さらに弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければなりません。