日月神示 地震の巻 第九帖

第九帖

 

 霊・力・体の三つがよりよく調和するところに真実が生まれ、生命します。これは根源からの存在であり用ですが、動き弥栄する道程にいて、復霊、復力、復体の(渦の印)(うごき)をなします。霊の立場よりすれば、霊は善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、霊は悪です。悪あればこそ善が善として救われ弥栄します。善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのです。悪は悪善として神の中に、善は善悪として神の中に弥栄えます。力がそこに現れ、呼吸し、脈打ちて生命します。故に生前の霊人は、生前界のみにては善なく、生命なく、地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命していきます。地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、生前界との交流によって初めて悪善としての力に生き、弥栄していきます。そして、なお地上人は死後の世界に通じなければなりません。死後の世界との関連により複数的悪善に置かれます。善悪善の立場に置かれる場合が多いために、地上における司宰神としての力を自ら与えられるのです。善悪の、生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものです。善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様です。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのです。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故です。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、すべてをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものです。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在します。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのです。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となります。地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神の持つ想念の本は大歓喜です。故に、地上人は霊人によってすべての行為の本をなし、霊人は神により、神は大歓喜によりてすべての行為の本とします。故に、地上人そのもののみの行為なるものはありません。いずれも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばなりません。歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属します。霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのですが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はありません。しかし、差のない立場において差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ません。すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用があります。動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生まれてきます。霊にのみ傾いてもなりませんが、強く動かなければなりません。体のみに傾いてもなりませんが、強く力しなければなりません。悪があってもなりませんが、悪が働かねばなりません。常に、動き栄えゆく、大和の(渦の印)を中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心をゝとする立体的動きの中に呼吸しなければなりません。それが正しき惟神(かんながら)の歓喜です。惟神の歓喜はすべてのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄します。故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのです。