日月神示 地震の巻 第一帖

第十七巻

 

地震の巻(全十九帖)

 

自 昭和二十年九月十日

至 昭和二十年十月三十日

 

 

第一帖

 

 われわれの一切は生れつつあります。神も、宇宙も、森羅万象(しんらばんしょう)の悉(ことごと)くが、常に生れつつあります。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生まれ続けています。一定不変の神もなければ、宇宙もありません。常に弥栄えつつ、限りなく生まれに生まれゆく。過去もなければ、現在もなく、未来もない。ただ存在するものが生まれに生まれつつあります。生もなければ死もない。善も思わず真も考えず美も思わない。ただ自分自身のみの行為はありません。ただ生まれゆき栄えゆくのみです。善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことです。故に地上人が自分自身でなすことには、すべて永遠の生命なく、弥栄はあり得ません。何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからです。思うことは行為することです。生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのです。存在は生命であり、生まれつつあるもの、そのものです。何ものも、それ自らは存在しません。弥栄しません。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈打ち、生命し、存在し、弥栄します。また、すべてのものの本体は、無なるが故に永遠に存在します。地上人は、生前に生き、生前に向かって進みゆく。また、地上人は、地上に生き、地上に向かって進みゆく。また、地上人は、死後に生き、死後に向かって進みゆく。しかし、そのすべては神の中での存在ですから、それ自体のものはありません。善でもなく、悪でもなく、ただ生まれつつあるのみ。霊人に空間はありません。それは、その内にある情動によって定まるが故です。また、その理によって一定せる方位もありません。また時間もなくただ情動の変化があるのみです。地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙のすべてを創られたもののごとく考えますが、創造されたものではありません。創造されたものならば、永遠性はあり得ません。宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、さらに常に神と共に永遠に生まれつつあります。その用(はたらき)は愛と現われ、真と見ゆるも、愛というものはなく、また、真なるものも存在しません。ただ大歓喜のみが脈打ち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのです。存在は千変万化する形において、絶えず弥栄します。それは(〇の中にゝの印)であり、(渦の印)なのが故です。(〇の中にゝの印)は大歓喜の本体であり、(渦の印)はその用です。それは、善でもなく悪でもありません。真でもなく偽でもありません。美でもなく醜でもありません。また愛でもなく憎でもありません。プラスでもなければマイナスでもありません。しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらきます。善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しません。これらのすべては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知りません。それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためです。神が意思するということは、神が行為することです。そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜です。神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命します。神の歓喜を内的に受け入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云(い)います。神の歓喜を外的に受け入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云います。月の霊人の喜びが、地上人として地上に生まれてくる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生まれ出ることは、極めてまれです。月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れます。故に、神に接し得るのですが、全面的には解け入りません。地上人は、この月の霊人の性をそのまま受け継いでいる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をそのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもちません。月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜として受け入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となります。ために二義的の歓喜とします。故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ません。おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互いに交通し得ないのです。この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在します。これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのです。地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ません。それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっています。以上のごとくですから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものです。