日月神示 地震の巻 第二帖

第二帖

 

 天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜しています。その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのです。何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからです。秩序、法則は、神そのものですから、神自身もこれを破ることは許されません。しかし、同一線上における横の交流は、可能です。それはちょうど、地上における各民族がお互いに交流し、融和し得るのと同様です。すべて分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈打ちません。分類しては、生命の統一はなくなります。そこに、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてきます。一なるものは、平面的には分離し得ません。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのです。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められています。ゝについては一なるも、(〇の中にゝの印)においては二となり、三となり得るところに、永遠の生命が歓喜します。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ません。神霊なき地上人はなく、地上人と離れた神霊は、存在しない。しかし、大歓喜にまします太神のゝは、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄します。それは、立体をはるかに超えた超立体、無限立体的無の存在なるが故です。霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人です。生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式です。すなわち、死後は生前の形式によります。形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われます。そして、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されません。愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しません。これら二つが相関連せるを外の真といいます。外の愛も外の真も共に生命します。人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見ればわかるでしょう。表面的なるものの動きも、内面的に関連性を持ちます。故に、外部的に曲げられたる働きの許されてあるを知ることができるでしょう。許されてはいますが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそです。浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽ではありません。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真ではありません。さらに善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜といいます。歓喜は神であり、神は歓喜です。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つです。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄えます。故に本質的には善悪のないことが知られるでしょう。死後の世界に入った最初の情態は生存時とほとんど変化がありません。先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできます。夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再び繰り返すことができるのです。霊界は、想念の世界ですから、時間なく、空間なく、想念のままになるのです。しかし、かくのごとき死後の最初の情態は長くは続きません。何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからです。そして、最初の情態は、生存時の想念、情動がそのままに続いているから、外部的のもののみが強く打ち出されます。故に、外部の自分にふさわしい環境に置かれるが、次の段階に入っていくと、外部的なものは漸次(ぜんじ)うすれて、内分の情態に入っていくのです。内分と外分とは、互いに相反しますが、霊人の本態は内分にあるのですから、この段階に入って初めて本来の自分に還るのです。生存時においては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するがために、限られたる範囲外には出られませんが、内分の自分となれば、自由自在の状態に置かれます。生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って初めて真の自分を発見し、天国的光明の扉を開くのです。偽の生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのです。かくすることによって、生存時における、あらゆる行為が情算されるのです。この状態に入ったならば、悪的なものはますます悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力をますます発揮します。故に、同一の環境には住み得ないのです。かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになります。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜なのです。