日月神示 地震の巻 第五帖

第五帖

 

 全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのです。故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部なのです。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長しています。故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っています。部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化します。故に、歓喜が生じます。本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影です。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ません。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではありません。悪はすべてを自らつくり得、生み得るものと信じています。善はすべてが神から流れ来たり、自らは何ものをもつくり得ぬものと信じています。故に、悪には本来の力なく、影にすぎません。善は無限の力を受けるが故に、ますます弥栄します。生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様です。生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ています。生前の行為が生後審判され、酬(むく)いられているのではありますが、それは、悪因縁的には現れません。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがあります。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではありません。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にです。地上人的に制限されたる感覚の範囲においては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来たす場合もありますが、それはいずれもが弥栄です。これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ません。川上で濁しても川下では澄んでいると同様です。要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのです。この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、さらに超大歓喜に向かって弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばなりません。しかし、天国や極楽があると思念することは、すでに無き地獄を自らつくり出し、生み出す因(もと)です。本来なきものをつくり出し、一を二に分けます。だが、分けることによって力を生み弥栄します。地獄なきところに天国はありません。天国を思念するところに地獄を生ずるのです。善を思念するが故に、悪を生み出すのです。一あり二と分け、離れてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生まれます。すなわち、一は二にして、二は三です。生前であり、生後であり、死後であり、なおそれらのすべては(〇の中にゝの印)です。(〇の中にゝの印)は(渦の印)であり(〇の中にゝの印)であり、ゝと集約されます。故に、これらのすべては無にして有なのです。人の生後、すなわち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄するところに尽きざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、さらに三の段階へと弥栄浄化します。浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となります。故に、神の中に神としてすべてが弥栄ゆるのです。悉(ことごと)くの行為が批判され、賞罰されねばならないと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものです。歓喜に審判なく、神に戒律はありません。戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。このことは神自らを切断することです。裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべてはこれ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばなりません。行為は結果です。思念は原因です。原因は結果となり、結果はただ、結果のみとして終わらず、新しい原因を生む。生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、さらに原因となりて生前の霊人を生む。(〇の中にゝの印)は(渦の印)となりて廻り、極まるところなくして弥栄えます。以上述べたところによって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるでしょう。されば、常に歓喜に向かってのみ進むのです。これはただ、霊人や地上人のみではありません。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による神羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、かつ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一です。生前の呼吸はそのまま生後、死後に通じます。地上におけるすべては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活があります。地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像のごとく感覚されるものです。しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばなりません。時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばなりません。