日月神示 岩の巻 第一帖(三六六)から第五帖(三七〇)

第一五巻

 

岩の巻(全十一帖)

 

自 昭和二十一年旧一月十五日

至 昭和二十一年旧一月十五日

 

 

第一帖(三六六)

 

 「岩の巻」書き知らせます。一八(イワ)は弥栄(いやさか)。(〇の中にゝの印)とゝと〇、(〇の中にゝの印)、(不明記号)が神です。(渦の印)が神ですと言ってありましょう。

 

 悪の守護となれば、悪よく見えるのですよ。人民悪いこと好きでするのではないのです、知らず知らずにしているのですよ。神にも見の誤り、聞きの誤りあるのですよ。元の神には無いなれど、下々(しもじも)の神にはあるのですよ。それで見直し、聞き直しと言ってあるのです。元の神には見直し聞き直しはないのです、スサナルの大神様、鼻の神様です、かぎ直しありませんよ、かぎの誤りはないのですよ。人民でも、かぎの間違いないのですよ。鼻の誤りないのですよ。

 

 スサナルの大神様、この世の大神様ですと言ってありましょう。間違いの神々様、この世の罪穢れを、この神様に着せて、無理やりに北に押し込めなされたのです。それでこの地の上を極悪神が我(われ)の好き候(そうろう)に持ち荒らしたのです。それで人皇(じんのう)の世と曇り汚して造り変え、仏(ほとけ)の世となりて、さらにまぜこぜにしてしまって、わからないことになりて、キリストの世に致して、さらにさらにわからないことに致してしまって、悪の仕組どおりに致しているのですよ、わかりましたか。

 

 釈迦もキリストも立派な神であるけれど、今の仏やキリストは、偽の仏やキリストですよ。同じ神二つあると言ってありましょう。

 

 ゝなくなっているのですよ、ゝない(渦の印)ですよ、(不明記号)でないと、まことできませんよ、わかりましたか。ゝなきもの悪です、ゝは〇です、火です、一(はじめ)です。暗がりの世となっているのも、ゝないからです。この道理わかるでしょう。旧一月十五日、かのととりの日、一二神。

 

 

第二帖(三六七)

 

  三千年の昔に返すと言ってありましょう。よい御用いたす身魂(みたま)ほど苦労させてあるのです。他から見てはわかりませんが、苦労に苦労させて、生き変わり死に変わり、鍛えに鍛えてあるのですよ。肉体の苦労も、霊(たま)の苦労も、どちらの苦労にも負けない人民臣民でないと、目先のことで、グレングレンと引っくり返りて、あわてふためくようなことでは、どんなことあってもビクともしない身魂でないと、御用難しいのです。

 

 今度の苦の花は富士に咲くのみです。富士に木(こ)の花開耶姫(はなさくやひめ)祀れと言ってありましょう、木の花、おのもおのも心の富士にも咲くのです。木の花咲けば、この世に出来ないことないのです。まことの神かかりです。

 

 この先もう立て替え出来ないギリギリの今度の大立て替えです。いよいよの立て替えですから、元の神代(よ)よりも、も一つキの光り輝く世とするのですから、なかなかに大層です。人民苦しかろうが、先楽しみに御用見事つとめ上げて下さいね。

 

 二つずつある神様を一つにするのですから、嘘偽(うそいつわ)りちっともなりませんよ。少しでも嘘偽りありたら、曇りありたら、神の国には住めないことになるのですよ。

 

 途中から出来た道では今度という今度は間に合わないのです。根本からの道でないと、今度は根本からの立て直しで末代続くのですから、間に合わない道理わかるでしょう。

 

 我(われ)の国どうしの戦(いくさ)始まるのです。この戦、神は目あけて見ておれませんが、これも道筋ですから、人民にも見ておれないのですが、共食いと言って知らせてありましょう。

 

 この方等(ほうら)が天地自由にするのです。元のキの道にして、新しき、キの光の道つくるのです。あら楽し世にするのですと言ってあることいよいよです、人民、臣民勇んでやりて下さい。神々様、守護神どの、勇め勇め。二月十六日、ひつ九神。

 

 

第三帖(三六八)

 

  天地(てんち)引っくるめて大立て替え致すのです。天地のビックリ箱とはそのことです。間違い出来ないうちに、間違わないよう気つけて下さいね。出来てからは、いくら泣いても詫びても後へは返せません、この方でもどうにもならない元のキの道です。くどう気つけておくように。

 

 これまでは道はいくらもあったのですが、これからの道は善一筋です。インチキ神の前には通らないのですよ、心しなさいと知らせてありましょう。三千年で世一キリと致すのです。

 

 まことの集まりが神徳(しんとく)です、神徳積むと、世界中見えすくのです。神だけではこの世のことは成就しないと言ってありましょう。神がうつりて成就させると言ってありましょう。こんなことこれまでにはなかったのです。二月十六日、一二神。

 

 

第四帖(三六九)

 

 元は十と四十七と四十八と合わせて百と五です、九十五です。旧一月十五日、かのととり、一(ひ)つ九のか三。

 

 

第五帖(三七〇)

 

  人民、目の先見えないから、疑りも無理ないのですが、身魂磨けばよくわかるのです、ついて来なさい、手引っ張ってあげますよ。誠の道行くだけではまだ足りません。心に誠一杯につめて空っぽにして進んでください、このことわからないと神の仕組遅れると言ってありましょう、早くなったところもありますが、遅れがちなのです。

 

 苦労、苦労と言っても、悪い苦労気の毒です、善き苦労花咲きます。花咲いて実結ぶのです。人民苦しみさえすればよいように早合点していますが、それは大間違いです。神の道無理ないと、くどう言ってありましょう。この道理よく嚙み分けて下さいね。

 

 神の国は元のキの国、外国とは、幽界(がいこく)とは生まれが違うのです。神の国であるのに人民近欲(ちかよく)だから、渡りて来られんものが渡りて来て、ワヤに致してしまっているのに、まだ近欲だから、近欲ばかり言っているから、あまりわからねばわかるようにしますよ。目の玉飛び出しますよ。

 

 近くは仏(ぶつ)渡って来て、わからないことにされているでしょう。五度の岩戸開き一度にしなければならないと言ってありましょう、生まれ赤児(あかご)の心で神示(ふで)読みなさいと言ってありましょう。二月十六日、ひつ九か三。