日月神示 日月の巻 第三十九帖(二一二)から第四十帖(二一三)

第三十九帖(二一二)

 

 喜べば喜ぶこと出来ます、悔やめば悔やむこと出来ます。先の取り越し苦労は要りません、心配りは要ると言ってありましょう。神が道つけて楽にいけるように嬉し嬉しでどんな戦も切り抜けるようにしてあるのに、臣民逃げて眼塞(ふさ)いで、懐手(ふところで)しているから苦しむのです。我れ善しという悪魔と学が邪魔していることにまだ気付きませんか。嬉し嬉しで暮らせるのですよ。日本の人民は何事も見えすく身魂授けてあるのです、神の御子です。掃除すれば何事もハッキリとうつるのです。早くわからなければ口惜(くや)しいこと出来ます。言葉とこの神示と心と行(おこない)と時の動きと五つ揃ったらまことの神の御子です、神です。十一月の三十日、ひつ九のか三ふで。

 

 

第四十帖(二一三)

 

 ここに伊邪那美命、語らいつらく、吾汝(あれみまし)と造れる国、未(いま)だ造り終えねど、時まちて造るへに、よいよ待ちてよ宣(の)り給いき。ここに伊邪那岐命、汝造らわねば吾(あ)とくつくらめ、と宣り給いて、帰らむと申(まお)しき。

 

 ここに伊邪那美命、是(こ)聞き給いて、御頭(みかしら)に大雷(おおいかつち)、大雷(オオイカツチ)、胸に火雷(ほのおいかつち)、火雷(ホノイカツチ)、御腹には黒雷(くろいかつち)、黒雷(クロイカツチ)、かくれに析雷(さくいかつち)、析雷(サクイカツチ)、左の御手に若雷(わきいかつち)、若雷(ワキイカツチ)、右(みぎり)の御手に土雷(つちいかつち)、土雷(ツチイカツチ)、左の御足に鳴雷(なるいかつち)、鳴雷(ナルイカツチ)、右の御足に伏雷(ふしいかつち)、伏雷(フシイカツチ)、成り給いき。伊邪那岐命、是見(こみ)、畏(かしこ)みてとく帰り給えば、妹(いも)伊邪那美命は、黄泉醜女(よもつしこめ)を追わしめき、ここに伊邪那岐命、黒髪鬘(くろかみかつら)取り、また湯津々間櫛(ゆつつまぐし)引きかきて、投げ棄(う)て給いき。

 

 伊邪那美命、次の八種(やくさ)の雷神(いかつちかみ)に黄泉軍副(よもついくさそ)えて追い給いき。ここに伊邪那岐命、十拳剣(とつかのつるぎ)抜きて後手(しりえで)に振(ふ)きつつさり、三度黄泉比良坂(みたびよもつひらさか)の坂本に到り給いき。坂本なる桃の実一二三(ひふみ)取りて待ち受け給いしかば、ことごとに逃げ給いき。

 

 ここに伊邪那岐命、桃の実に宣り給わく、汝(みまし)、吾(あ)助けし如(ごと)、あらゆる青人草(あおひとくさ)の苦瀬(うきせ)に悩むことあらば、助けてよと宣り給いて、おおかむつみの命、オオカムツミノ命と名付け給いき。

 

 ここに伊邪那美命、息吹き給いて千引岩(ちびきいわ)を黄泉比良坂に引き塞(そ)えて、その石中にして合い向かい立たしてつつしみ申し給いつらく、うつくしき吾(あ)が汝夫(なせ)の命、時廻(ときめぐ)り来る時あれば、この千引(ちびき)の岩戸、共にあけなんと宣り給えり。ここに伊邪那岐命、しかよけむと宣り給いき。ここに妹(いも)伊邪那美の命、汝(みまし)の国の人草、日に千人死(ちひとまけ)と申し給いき。伊邪那岐命宣り給わく、吾は一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)生まなむと申し給いき。

 

 この巻、二つ合わして「日月(ひつく)の巻」としなさい。十一月三十日、ひつ九か三。

 

<『日月の巻』「月の巻」了>

 

 

第七帖(一八〇)岩戸以下原文

 

 五八三十十九四六七八八九四六 三三九四七九七百三 三九三三 一二三 三五 十九七四 一六七 一三〇九七四(〇の中にゝの印)九四百一九七四三九三三 一三 十 二四 一二(〇の中にゝの印)。

 

 

第二十八帖(二〇一)原文

 

  一八十(チョンチョン)十(〇の中にゝの印)ハレ 二二七(チョン)(渦の印)三 九ノ(渦の印)八九一ん四六百ノ三 四ノ百十十百 ゝ百ノ八一(チョンチョンチョン)三三(チョンチョンチョン)三 九百デ(チョン)九二十七(チョン)三一(チョン)百十八九ノ九ニノ九十三 (〇の中にゝの印)三七(渦の印)ノ(〇の中にゝの印)(チョン)九ノ四ノ大(〇の中にゝの印)三マ三 一八◎て(チョンチョン)七り (渦の印)て月(チョン)七り九二十七リタノ三三 ア(チョン)(渦の印)ノ(〇の中にゝの印)三(チョン)七り(〇の中にワヤ)ハ月ノ(〇の中にゝの印)三三 九二ノ(〇の中にゝの印)三(チョン)八(〇の中にゝの印)三七(渦の印)ノ(〇の中にゝの印)三マ三 九ノ九十一二九九ろ二一レ(チョンチョン)十二ハタ(〇の中にハ)七一三 九レン十八上下カ(チョンチョン)九十十百四てア(ちょんちょん)七 一二て七(渦の印)ヌ九十三 一八(チョンチョン)七ら(チョン)九十三 アメノ(〇の中にゝの印)つ九ノ(〇の中にゝの印)

 

 

第二十九帖(二〇二)原文

 

 一十一一十一三九十ノ四十七る三 (〇の中にゝの印)ノ九十一二四り三九十七一三 百ノ一二七四 三九十一二ノ三三 三九十(〇の中にゝの印)三 三三 ア三 四カ〇るノ三 七二百八ケ四九七キアケ三 一九三百七キアケ三 八九二二十九百(〇の中にゝの印)て七一三 一カリ九へ四一キ三三 (〇の中にゝの印)三七(渦の印)ノ三九十〇つり九れ四 一十九三 う七八(渦の印)十八九ノ九二三 十一 二五 一二(〇の中にゝの印)

 

【注】

 

 ※『古事記』との関連がうかがわれる神示が出てくる巻である。従来の日月神示(ひふみ神示)ではカタカナで表記されているその個所は、カタカナともに意訳漢字を当てはめた文を併記してみた。このあたりは『日月神示と古事記の神々の予言』(徳間書店5次元文庫)で詳述したので、そちらをご参考にして頂きたい。

 

 ※ここに、伊邪那岐の「ヌホコ」に対するものとして、伊邪那美の「ヌホト」が出てくる。「ホト」とは女陰、「ホコ」は男根であり、人間で言う男性器と女性器にかけた比喩表現であろうと思われる。

 

 第十八帖には伊邪那美命の神名が二回続けて出されているが、これについて筆者は最初の方が「伊邪那岐命」の誤りではないかと思うのだが、原典を見てもそう記されている([一三七三]が二回)ので、取りあえずこのまま記しておく。

 

 ※第三十帖のところで、伊邪那美命がカッコ内に入っているが、これは原文にはないためである。しかしこのくだりは、伊邪那岐・伊邪那美二神が息を合わせて国生みをするところなので、「伊邪那美命」のみ表記がないのはおかしい。欠落したものだろうか?

 

 ※同じ神名が、ひらがなとカタカナで二回繰り返し出てくるところがある。ただしこれは原文ではひらがなとカタカナで記されているわけではない(「大事忍男神」ならば、[おゝ九十おしをのか三おほ九十おしをのか三]という具合に記されている)。なぜ同じ神名が(しかも一部のみ)繰り返されるのかは不明。

 

 ※日月神示と古事記を比較すると、生ずる神々の順番に異同がある。このことは『日月神示と古事記の神々の予言』で詳述したので省略する。

 

 ※この国生みのくだりで最も重要なことは、古事記ではナギ・ナミの二神が絶縁したまま終わっているのに対し、日月神示では、「いずれ時が来たら、ともに岩戸を開こう」と両神が合意している点にある(第四十帖)。この部分は古事記にはない。そしてその「岩戸開き」の時がついに巡り来たというのが日月神示出現の意義なのである。