日月神示 地つ巻 第一帖(一三八)から第八帖(一四五)

第五巻

 

地つ巻(全三十六帖)

 

自 昭和十九年九月十五日

至 昭和十九年十月十一日

 

 

第一帖(一三八)

 

 書き知らせます。世界は一つのミコトとなるのです、それぞれの言の葉はありますが、ミコトは一つとなるのです。てんし様のミコトに従うのです、ミコトの世近づいて来ましたよ。九月十五日、一二(〇の中にゝの印)。

 

 

第二帖(一三九)

 

  今は闇の世ですから夜の明けたこと言っても、誰にもわかりませんが、夜が明けたらなるほどそうであったのかとビックリしますが、それでは間に合わないのです、それまでに心改めておいて下さいね、この道信じれば、すぐ良くなると思っている臣民もありますが、それは己の心のままです、道に外れたものは誰(だ)れ彼(か)れないのです、これまでのやり方スクリと変えねば、世は治まらないと言ってありますが、上(うえ)の人苦しくなりますよ、途中の人も苦しくなりますよ、おまわりの言うこと聞かないようになります。九月の十六日、ひつ九のか三。

 

 

第三帖(一四〇)

 

 人民同士の戦いでは到底(とうてい)かないませんが、いよいよとなったら神がうつって手柄させるのですから、それまでに身魂磨いておいてくださいね。世界中が攻め寄せたと言っても、誠には勝てないのです、誠ほど結構なものないから、誠が神風(かみかぜ)ですから、臣民に誠なくなっていると、どんな気の毒出来るかわからないから、くどう気つけておくのです、肚(はら)、掃除しなさい。九月の十六日、ひつ九のか三。

 

 

第四帖(一四一)

 

 この神示(ふで)いくらでも出て来るのです、今の事と先の事と、三千世界、何もかもわかるのですから、よく読んで、肚に入れておいてくださいね、この神示盗まれないようにしなさい、神示盗りに来る人あるから気をつけなさい。

 

 この道は中行く道です、左も右(みぎり)も偏(かたよ)ってはなりません、いつも心にてんし様拝みておれば、何もかも楽にゆけるようになっているのです、我(われ)が我がと思っていると、鼻ポキリと折れます。九月十六日、ひつ九神。

 

 

第五帖(一四二)

 

 片輪車でトンテントンテン、骨折損のくたびれ儲けばかり、いつまでしているのですか、神にまつろえと言ってありましょう、臣民の智恵で何が出来ましたか、早く改心しなさい。三月三日、五月五日は結構な日です。九月十六日、ひつ九のか三。

 

 

第六帖(一四三)

 

 神の国八つ裂きと言ってあることいよいよ近づきました、八つの国、一つになって神の国に攻めて来ます。目覚めたらその日の生命(いのち)お預かりしたのです、神の肉体、神の生命、大切にしなさい。神の国は神の力でないと治まったことないのです、神第一です、いつまで卍(仏)や十(キリスト)や九(いろいろなもの?)にこだわっているのですか。出雲の神様大切に、有り難くお祀りしなさい、尊い御神様です。天津神、国津神、みなの神々様に御礼言いなさい、まつろいて下さいね、結構な恐い世となって来ましたよ、上下(うえした)グレンです。九月十七日、一二(〇の中にゝの印)。

 

 

第七帖(一四四)

 

 神にまつろう者には生き死にもないのです、死のこと、まかると言ってありましょう、生き通しです、亡骸(なきがら)は臣民は残さなければならないのですが、臣民でも昔は残さないで死(まか)ったのですよ、それがまことの神国の臣民です、ミコトです。

 

 世の元と言うものは、天も地も泥の海であったのです。その時から、この世始まってから生き通しの神々様の御(おん)働きで五六七(ミロク)の世が来るのです。肚が出来ていると、肚に神つまりますのです、高天原(たかあまはら)です、神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)忘れないように。そこからわかって来ますよ。

 

 海をみな船で埋めねばなりません、海断たれて苦しまないようにしてくださいね、海めぐらしてある神の国、清めに清めておいた神の国に、外国の悪渡って来て神は残念です。見ておざれ、神の力現わす時来ました。九月十八日、ひつ九神。

 

 

第八帖(一四五)

 

 祓いなさいと言ってあることは、何もかも借銭なしにすることです。借銭なしとはメグリなくすることです、昔からの借銭は誰にでもあるのです、それ払ってしまうまでは誰によらず苦しむのです、人ばかりではありません、家ばかりではありません、国には国の借銭あります。世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)です。

 

 今度の世界中の戦(いくさ)は世界の借銭なしです、世界の大祓(おおはらえ)です。神主、お祓(はら)いの祝詞(のりと)あげても何にもなりませんよ、お祓(はらえ)祝詞は宣(の)るのです、今の神主宣っていません、口先ばかりです、祝詞も抜けています。畔放(あはなち)、頻蒔(しきまき)や、国津罪、みな抜けて読んでいるではないですか、臣民の心には汚く映るでしょうが、それは心の鏡曇っているからです。悪や学に騙されて、肝心の祝詞まで骨抜きにしているではないですか、これでは世界は浄(きよ)まりません。祝詞は読むものではないのです、神前で読めばそれでよいと思っているのですか、それだけでは何にもなりません。宣るのです、いのるのです、なりきるのです、とけきるのです、神主ばかりでないのです、皆心得ておきなさい、神のことは神主に、仏は坊主にと言っていること根本の大間違いです。九月十九日、ひつ九の神。