日月神示 地震の巻 第十六帖

第十六帖

 

 考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではありません。霊的な内奥の自分からです。この内奥の自分は、神につながっています。故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分というものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神が為し給うているのです。そこに、人が地上にあった時と同様に意識があり、同様の感覚があります。これによって、人の本体たる霊は、生前同様に、霊界でも見、聞き、味わい、嗅ぎ、感じ、生活することが出来るのです。しかし、肉体を捨てて、霊体のみとなり、霊界で活動するのですから、物質の衣にすぎないことが判明します。肉体を持っている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸します。霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっています。また、心臓は、その情動の現われとなって脈打ちます。霊体となってもまた同様であることを知らねばなりません。この二つの動きが、一貫せる生命の現われであって、生前も、生存中も、死後も、また同様なのです。肉体の呼吸と脈搏とは、新しき霊体の呼吸と脈搏に相通じ、死の直後に霊体が完全するまでは、肉体のそれは停止されないのです。かくて、霊界に入った霊人たちは、すべて生存時と同じ想念を持っています。為に、死後の最初の生活は生存時とほとんど同一であることが判明するでしょう。故に、そこには地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じています。そして、霊界においては、先に述べたごとき状態であるが故に、各人の歓喜は、死後の世界においても、生前の世界においても、これに対応する霊的の事物と変じて現われるものなのです。この霊的事物は、地上の物質的事物に対応します。人間が、物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、すなわち肉体を持ち、霊界に入った時はそれに対応した霊体を持つ。そして、それはまた完全なる人間の形であり、人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、さらに大宇宙そのものの形なのです。大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、また内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばなりません。大歓喜は無限であり、かつ永遠に進展して行くのです。変化、進展、弥栄しないものは歓喜ではありません。歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展します。故に、歓喜は肺臓と心臓とを有します。この二つは、あらゆるものに共通であって、植物にもあり、鉱物にすら存在するものです。人間の場合は、その最も高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通ずる最奥の組織を有します。これはもはや心臓と表現するにはあまりにも精妙にして、かつ深い広い愛であり、肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理です。そして、この二者は一体にして同時に、同位のものとなっていることを知らねばなりません。それは心臓としての脈搏でもなく、肺臓としての呼吸でもありません。表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われです。そこに人間としての、他の動物に比して異なるもの、すなわち、大神より直流し来たるものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのです。人間が、一度死の関門をくぐり、肉体を捨てた場合は、霊そのものの本来の姿に帰るのですが、それはただちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのです。第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態です。七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのです。