日月神示 地震の巻 第四帖

第四帖

 

 同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然(しか)らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかります。同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体ですが、また死後の世界に通じます。同気同一線上にいる霊人たちは、かつて一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹であるごとくに、お互いに、そのすべてを知ることができます。生前の世界における、かかる霊人が肉体人として生まれて出でた場合の多くは、同一の思想系を持つ。ただし、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてきます。また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともあります。霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一としてありません。そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのです。生前の霊人の場合は、自分自身の持つ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現れていて、いささかも反する額面を持つことは許されません。一時的に満たすことはできても、長くは続きません。この情態の原理は、地上人にも、反影しています。生前の世界は、以上のごとくですから、同一情態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さいのです。数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もあります。各々の団体の中には、またとくに相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにして出来上がっています。そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重(いくえ)にも、内分の神に近い霊人の順に座を取り囲み運営されています。もしそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しません。そして、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神(かんながら)の流れ、すなわち歓喜によって自ら定まっているのです。またこれら集団と集団との交流は、地上人のごとく自由ではありません。すべては(〇の中にゝの印)のゝを中心として(〇の中にゝの印)の姿を形成しているのです。ゝと(〇の中にゝの印)とを、生前の世界において分離することは極めて至難ではありますが、ある段階に進む時は一時的に分離が生じます。しかし、この場合もゝはゝであり(〇の中にゝの印)は(〇の中にゝの印)です。これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度がさらに加わって、真偽混乱に及ぶものなのです。悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるがごとく写し出されるのです。生前界では、悪を意志して悪を行うことは、御用の悪として自ら許されています。許されているから存在し行為し現われているのです。この場合の悪は、悪にあらずして(〇の中にゝの印)の(〇の中にゝの印)であることを知らねばなりません。すなわち、道を乱すが故です。地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写されます。愛は真により、真は愛より向上し、弥栄します。その根底力をなすは歓喜です。故に、歓喜なき所に真実の愛はありません。歓喜の愛は、これを愛の善といいます。歓喜なき愛を、愛の悪というのです。その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕(あら)われ、(〇の中にゝの印)となり、ゝと集約され、その集約のゝの中に(〇の中にゝの印)を生じ、さらになおゝと弥栄ゆる。生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれです。大神は常に流れ行きて、一定不変ではありません。千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜なのです。完成より大完成へ向かい進む大歓喜の呼吸です。されど、地上人においては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばなりません。そこに時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできません。故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのです。そこに、地上人としての尊きかなしさが生じてきます。霊人においては、善悪の両面に住することは、原則として許されません。一時的には仮面をかむり得ますが、それは長く続かず、自分自身絶え得ぬこととなります。地上人といえども、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていません。しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければなりません。悪と偽に、同時に入ることは、一応の必要悪、必要偽として許されます。何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからです。悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、すべてを殺す結果となるからです。霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、初めて力し、歓喜し、弥栄するからです。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止みません。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのです。霊人も子を生みますが、その子は歓喜です。歓喜を生むのです。