日月神示 月光の巻 第十九帖(八〇六)から第二十七帖(八一四)

第十九帖(八〇六)

 

 釈迦、キリスト、マホメット、その他世界の生命ある教祖及びその指導神を、御光(みひかり)の大神様と讃(たた)えまつれと言ってありましょう。

 

 大神様の一つの現れですと言ってありましょう。

 

 なぜ御光の大神様として斎(いき)つ祀(まつ)らないのですか。なぜ宗教しないのですか。

 

 だから、そこにひかり教会としての力が出ないのです。人民の浮き瀬の悩みを救うのはオホカムツミの神様です。この能(はたらき)の神名を忘れてはなりませんよ。

 

 この方はオホカムツミの神とも現れますと知らせてあることを忘れたのですか。

 

 

第二十帖(八〇七)

 

 大奥山と教会とをまぜこぜにしてはなりません。教会やその他の集団は現れ、大奥山は隠れるのです。

 

 大奥山はこの度の大御神業に縁(ゆかり)のある神と人とを引き寄せて練り直し、御用に使う仕組みです。

 

 見ていなさい、人民には見当とれないことになりますから。

 

 

第二十一帖(八〇八)

 

 大奥山から流れ出た宗教の団体は、ひかり教会のみではありません。いくらでもあります。出てきます。

 

 故に、大奥山に集った者が皆ひかり教会員ではありません。それぞれのミタマの因縁によっていろいろな集団に属しています。

 

 この点をよく心得てください。大奥山は有りて無き存在、人間の頭で消化されるような小さな経綸(しくみ)ではないのです。

 

 大奥山だけに関係を持つ人もいます。囚われてはなりません。三千世界を一つに丸めるのがこの度の大神業なのですから。

 

 世界一家は目の前、分からない者は邪魔せずに見物していなさい。神の経綸は間違いがないのです。

 

 

第二十二帖(八〇九)

 

産土様によくお願いしなさい。忘れてはなりませんよ。宗教に凝り固まって忘れている人が多いのです。

 

 他の神を拝んではいけないという、あなたの信仰はそれだけのもの、早く卒業するのがよろしい。

 

 

第二十三帖(八一〇)

 

 他の宗教に走ってはならないという宗教も、それだけのもの。分からないと言ってもあまりです。

 

 同じ所に天国もあり、地獄もあり、霊界もあり、現実界もあり、過去も未来も中今(なかいま)にあるのです。

 

 同じ部屋に他の神や仏を祀ってはならないと言う一方的な盲目的な宗教には盲目的な人が集まるのです。

 

 病気が治ったり運が開けたり、奇跡が起こったりすることだけをおかげと思ってはなりません。

 

 もうちょっと大きな心で、深い愛と真の世界を拝んでください。融(と)け入りなさい。

 

 浄化が第一です。

 

 金が好きなら金を拝んでもよいのです。区別と順序さえ心得ていれば、何様を拝んでもよいのです。金を拝めば金が流れてきます。

 

 金を拝み得ぬ意固地さが、あなたを貧しくしたのです。赤貧は自慢にはなりません。無神論も自慢にはなりません。

 

 清貧は負け惜しみ、清富になりなさいと言ってありましょうが。清富こそ弥栄の道、神の道、オオヒツキクニオオカミのマコトの大道です。

 

 

第二十四条(八一一)

 

 怒ってはなりません。急いではなりません。怒ると怒りの霊界との霊線が繋がり、思わぬ怒りが湧いてモノを壊してしまいます。

 

 太神の経綸(しくみ)に狂いはありません。皆々安心してついてきてください。

 

 

第二十五条(八一二)

 

 食物は科学的栄養のみに囚われてはなりません。霊の栄養が大切です。

 

 自分と自分と和合しなさいと言ってありますが、肉体の自分と魂の自分との和合が出来れば、もう一段奥の魂と和合しなさい。更にまた奥の自分と和合しなさい。一番奥の自分は神なのです。

 

 高い心境に入れば、神を拝む形式は無くてもよいのです。為すこと、心に浮かぶこと、それ自体が礼拝となるからです。

 

 山も自分、川も自分、野も自分、海も自分なのです。草木動物ことごとく自分なのです、歓喜なのです。

 

 その自分が出来たら天を自分としなさい。天を自分にするとはムにすることです。神に化すことです。ウとムと組み組みて新しいムとすることです。

 

 

第二十六条(八一三)

 

 現状を足場として進まねばなりません。現在のあなたの置かれていた環境は、あなたが作り上げたものではありませんか。

 

 山の彼方に理想郷があるのではありません。あなたはあなたの足場から出発しなければならないのです。

 

 よしそれが地獄に見えようとも、現在においてはそれが出発点です。それより他に道はありません。十二月三十一日。

 

 

第二十七条(八一四)

 

 祓(はら)いは結構ですが、厄払いのみでは結構とはなりません。それはちょうど、悪を無くせば善のみの地上天国が来ると思って、悪を無くすことに努力した結果、今日の大混乱を来したのと同じなのです。

 

 よく考えてください。善と言うも悪と言うも、皆ことごとく大神の肚(はら)の中なのです。大神が許し給えばこそ存在しているのです。この道理をよく会得してください。

 

 祓うというのは無くすことではありません。調和することです。和して弥栄することです。