日月神示 黒鉄の巻 第二十一帖(六三九)から第二十八帖(六四六)

第二十一帖(六三九)

 

 身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神です。ものの嬉しさだけではゼロです。魂(たま)の嬉しさだけでもゼロです。よく心得なさい。死後のみ説く宗教はゼロの宗教です。迷うことのないように。この世で天国に住めないもの、天国に行ける道理ないのですと言ってありましょう。神は人間の命、人間は神の容(い)れものであると言ってありましょう。人間の極まるところは神です。霊人は中間の存在です。人間は神への土台です。この道理わかるでしょう。(記号不明)は三五七です。三の(記号不明)から三五の(記号不明)。三五七の(記号不明)。(一月二十二日)

 

 

第二十二帖(六四〇)

 

  顔まで変わっているのに未だ気づかないのですか。病気に皆がなっているのに未だ気づかないのですか。何事も早い改心結構。自分で自分の心の中は中々に掴(つか)めないものでしょう。その中にまた心あり、また中に心があるのです。心は神界です。霊界や神界のものを肉体の自分で掴もうとしても中々です。鰻(うなぎ)つかみと言ってありましょう。ヌラリクラリと掴んだはずが掴んでいないのです。掴むには身と魂と一つに和さねばなりません。ゝから愛と智とが生まれると言ってありましょう。智と愛との和合によってゝがまた生まれるのです。ゝは喜びですよ。ゝの別のゝですよ。そのゝからまた別の愛と智が生まれ、また別のゝが喜びとなり、その喜びの愛と智の喜びと結んで、また喜びのゝ生まれるのです。神は額から入って顔全体に至り、全身に及ぶものです。(一月二十二日)

 

 

第二十三帖(六四一)

 

  何事も体験結構。今の人民の迷信と思うものの中に正信あります。正信と思うものの中に迷信多いのです。理解は正信。神の気通ったら、その気を人間にうつす御役、救いの御役を結構につとめあげてくださいね。自分の自由にならないことは大き自分が自由にしているのですよ。神となれば、神人となれば何事も心のまま。神とは神、大神とは(記号不明)一十(カミヒト)のこと。(一月二十二日)

 

 

第二十四帖(六四二)

 

  悪とは影のことです。斜めに光を頂くから影出来るのです。影は主人ではありません。絶対は何といっても絶対です。相対から神を求めると、相対の神が顕(あら)われますよ。相対で神の道に導くこと中々ですね。必ず後戻り、わかりはしませんよ。この神示、肚に入ったらグレンと変わって来ますよ。早く肚に入れて下さいね。間に合いませんよ。天の声は内から聞こえて来ます。人間の言葉は外から聞こえて来ます。霊耳(れいじ)というのは内からです。耳ふさいでも聞こえて来ます。悪霊自身は自身を悪と思っていませんよ。(一月二十二日)

 

 

第二十五帖(六四三) 

 

 心は草にも木にも石にもあります。天に瞬(またた)く星にもあります。ただ薄いか厚いかの相違です。ゝの中のゝに悪は入れないのですよ。外のゝの中に、外の智の中に悪が入るのです。人間の智の中には悪も善も入ります。入るからこそこれは善です。これは悪ですとわかるのです。人間の自由は其処(そこ)にあるのです。自由なければ発展ありません。弥栄ありません。霊を信じる者は霊と語り、肉を信じる者は肉と語り得るのです。人間そのものから湧き出(い)づる喜びは無いのです。よく心得なさい。(一月二十二日)

 

 

第二十六帖(六四四)

 

 神は理屈ではありません。理なのです。生きた自由自在の、見当とれない、絶対です。ただ求めるより外(ほか)に道ありません。親呼ぶ赤児の声で神を求めなさい。神に呼びかけなさい。すべてを投げ出しなさい。まかせ切りなさい。神は喜びの光となって、そなたに現われて来ます。理屈の信仰に囚われると邪道。赤児心の理解は第一です。(一月二十二日)

 

 

第二十七帖(六四五)

 

  神は人間の想念の中に入っています。想念が一致するから神の想念が人間に伝わるのです。人間の言葉となって人間に現われるのです。言(こと)は神ですが人間でもあります。自分が自分に語るのです。この道理、よく心得なさい。時まちて起き出て下さい。恨みの霊は中々にとけませんよ。思いは能(はたら)き、実在と言ってありましょう、間違いでも恨まれると、恨みがまといつきますよ。心して神を求め、心して幽界からのキ断ちて下さいね。わかったと思ったら天狗です。省みるとよくなる仕組。(一月二十二日)

 

 

第二十八帖(六四六)

 

 喜びに融け入るから嬉しいのです。喜びから遠ざかるから悲しいのです。そんなことわかっていると言っていますが、本当に身体にわかってはいません。喜びに入る門は愛からです。真からです。二道あり愛から入るのが入りやすいのですが、愛からでは誤りやすい。生まれてすぐ歩けるものではありません。始めから何もかも出来ません。気長に進んで行きなさい。内の念と外の念とがあります。二つですよ。一つですよ。三つですよ。心大きく、広く天地に放さないと、天地のキを吸うこと出来ません。(一月二十二日)