日月神示 地震の巻 第八帖

第八帖

 

 生前の世界に、霊人が生活しています。山があり、川があり、住宅、衣類、食物があります。しかし、それは最初からのものではありません。それらの元をなすゝが歓喜していた、そのゝが生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界に続き、死後の世界の様相はゝの原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、そのゝを幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的ゝに向かって弥栄する面と、外的、地上的に進むゝと、その交叉融和することによってさらに生み出され弥栄するゝと、その各々が各々の立場においてゝ(進み)ゝ(呼吸し)ゝ(脈打ち)ゝ(生命)していると同時に全体的にもゝ(生命し)ゝ(歓喜し)ゝ(弥栄)しています。そして、その現われとしては、ゝ(和)せばゝ(和)するほど相離れ、遠ざかりつつゝ(生長)します。またゝ(生命)のゝ(大歓喜)として湧き出ています。故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々より生み、人々により育てられ、歓喜されるのです。かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入るまでは、真の三千世界の実相を十分に知り得ません。故に、新天新地の来るまで、真の天国を体得し得ません。新天新地の新しき世界に生まれ出づる自己を知り得ません。この新天新地は幾度となく繰り返されているのですが、いずれもゝの形におけるがごとく同一形式のものではありますが、同一のものではありません。より小なるものより、より大なるものが生まれ、より大なるものより、より小なるものが生まれ、より新しきものより、より古きものが生まれ、より古きものより、より新しきものが生まれ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、さらには一つとなることを理解しません。月より地球が生まれ、地球より太陽が生まれるということを理解するに苦しむものですが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのです。これは外部的なる智によらず、内奥の神智に目覚めることによってのみ知り得ます。新天新地新人はかくして生まれ、呼吸し、弥栄えます。しかし、新人と生まれ、新天新地に住むとも、それ以前の自分のすべては失いません。ただその位置を転換されるのみです。地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を脱ぎ捨てますが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのです。その状態よりもなお一層、そのままであって何等の変化もないと思えるほどです。蛆が蝶(ちょう)になるごとく弥栄えるものであって、それは大いなる喜びです。何故ならば、大歓喜なる大神の中において、大神のその質と性とを受け継ぎ呼吸しているからです。すべてのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為します。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ません。故に、歓喜より離れたる信仰はなく、真理はなく、生命はありません。生前の霊人が地上人として生まれてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばなりません。歓喜は行為となります。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではありません。ただ考えたり意志するのみでは萌え出でません。生命しません。ただ意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではありません。霊界においては意志することは直ちに行為となるのです。地上人にありては物質によりて物質の中に、その意志を行為することによって初めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのです。生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階にまず区別され、その段階において、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成します。自分にふさわしくない環境に住むことは許されません。否、苦しくて住み得ないのです。もしその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまいます。例えば、愛の歓喜に住む霊人は、その愛の内容いかんによって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成します。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉(ことごと)くが最もよく自分に似ており、自分と調和します。山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、すべて自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈搏の中にあり、それらのすべてが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚します。故に、その性質は生後に基づき、地上人もその周囲を自分化しようとする意志を持っているのです。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動きません。死後の世界もまた生前と同様ですが、一度物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのです。だが、いずれにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ち切ることは出来ません。物質は物質的には永遠性を持たず、霊は永遠性を持ちますが、霊的角度から見れば永遠性は持ちません。しかし、物質面より目れば永遠性を持つものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものです。そして、永遠性を持つ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内臓しています。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのです。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければなりません。